そこで、今回紹介する『ヨーロッパ狂雲記』なのですが、どうやら「はしがき」に依りますと、以前刊行された『禅僧ひとりヨーロッパを行く』に対する反響と要望に応えるべく執筆されたものであるようです(1頁参照)
内容はなんということもない、弟子丸老師の欧州での伝道が、その体験に従って書かれておりまして、主な活動場所とされたフランスでの様々な人との出会いや、会話や、弟子丸老師を中心とした現地の人間模様が書いてあるのです。
ところで、小生が同著で一番気に入っている場所は、「はしがき」にある「いかに崇高な哲学も宗教も、現実の社会に受けいれられなければ、その輝きは埋もれ、宝のもちぐされとなってしまう。宗教にしろ、哲学にしろ、芸術にしろ、大衆に伝えるがゆえに貴い」(2頁)という箇所を実践したであろう次の言葉です。弟子丸老師は、禅のあり方をただ一語で伝えるために、現地のフランス語で“ドモナーム、アトナーム”という言葉を使ったことが記されています。この言葉の意味は「心から心へ」つまり「以心伝心」です。なるほど、フランス語の響きもさることながら、内容も極めて簡潔であり、こういった言葉は或る集団をまとめるのに、大いに役立ったことでしょう。やはり、同じ集団にいる以上、そこには誰にも共通の言葉があった方が良いのです。そこに連帯感が生まれるからです。念仏やお題目などと同等の機能を持つ言葉だと理解できるのではないでしょうか。実際に弟子丸老師はそれを狙っていたのか、たまたまなのかは残念ながら同著からは伺うことは出来ませんでしたが、おそらくなんらかの経緯があったことでしょう。弟子丸老師は講演を頼まれたものの、いきなり聴衆の面前で坐禅だけをしたなどという事もあるようですが、別にこういった姿だけを見せるようなことはなかったようです。
そこには、「はしがき」の「私は、一休禅師のような奇行をしようとは思わない。また禅僧である以上、禅戒はできるだけ守ってゆきたい。しかしながら一休が、当時そうした奇行をあえてしたその動機と精神は、大乗仏教、ないし禅にとって大切なことだと思われるので、今回はあえてフランス女性の業報に目を向けて書いたのである」(3頁)とされていることからも理解はできます。
さて、こういった自伝にありがちなのですが、どうしても自分自身の顕彰に終始してしまう傾向があることは否めません。一応、「はしがき」に「異国での禅僧としての失敗談などを赤裸々に書いてほしい」(1頁)という読者からの要望があったことを記してはおられますけど、残念ながら失敗談はあまりないです。例えばこんな感じでしょうか「赤松の林のなかには、日本とちがって春から秋にかけ、いつ行ってもシダの下に見事な松茸が続出していた。私はそれを採るのが楽しみであった。彼らはシャンピニオンは好んでたべるが、野生の松茸の味をいままでしらなかったらしい。私が台所で松茸ごはんの炊き方を教えてやったら、それからというものはローズマリーは毎日、それをつづけてだしたので、これには少々閉口させられた」(213頁)とあるくらいでしょうか……
先ほど「はしがき」から「フランス女性」について書かれていることを引用しましたが、確かにこの著作にも女性が大勢登場します。なんでも小生が聞いた話では、以前弟子丸老師が日本へ帰国された際に、フランス女性を連れてきたということですから、よほど人気があったのでしょう。
とにもかくにも、弟子丸老師自ら「禅僧は“清濁あわせ呑む”ところが無くては」等と仰ってますが、その行実には多くのエピソードと、それらに常に付きまとう肯定否定両面の評価を拝察するに、非常に捉えにくい弟子丸老師でありますが、皆さまの情報提供を元に、少しずつその実像に触れられれば幸いです。
事務局・菅原 拝
1914年 佐賀県生まれ
神奈川大学時代に朝比奈宗源老師に参禅。
1936年 鶴見總持寺にて生涯の師となる沢木興道老師に師事。
俗弟子となり修行を続ける。
1965年 出家して単身フランスに渡る。天衣無縫な精神をもって、
ヨーロッパに根強い伝道を繰り広げる。
1976年
曹洞宗ヨーロッパ開教総監、ヨーロッパ禅協会会長。
パリ市内に仏国禅寺フランス・アバロンに大乗禅寺及び大乗仏教研究所設立。
30数カ所の禅道場を開設。ヨーロッパに10数万人の会員を擁する。
長野県佐久市清久寺住職(註1)を兼ねる。
1984年 示寂。
よろしくお願いいたします。
事務局・菅原 拝
]]>とりあえず3月いっぱいまで運用してみます。
活用できそうであれば、本運用に移行します。
随時、改良は出来ますのでご意見をお待ちしています。
Email wszt@gte.net